「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」鑑賞

本谷有希子が持つ内外から溢れ出る狂気は原作である同名小説を読んだ人ならば明確なカラーでイメージすることができる。
それっくらいハッキリとした小説をどうしてこういう映画にできるのか、俺は不思議でならない。

一番の問題はその監督のセンスなのだが、それを如実に表してるのがキャスティングだろう。多分、サトエリありきで作っている。
ご承知のとおり、サトエリの魅力はバカっぽい可愛さとそのエロいスタイルにある。主役の和合澄伽もエロくバカではある。しかしバカの種類が決定的に違うのだ。澄伽はサトエリのように「見た目からバカっぽい」じゃなく内面からにじみ出た性悪故の結果的「バカ」でなければならないのだ。ビジュアル的にしか「バカ」を表現できてない底の浅さがキャスティングの決定的ミスとなった。聞けば監督吉田大八はCMディレクターとのこと。役者を記号として使うCM屋にありがちなミスだろう。

そのせいかどうかしらんが、永作のオーバーアクションも目に付いた。本来もっと抑えた演技もできるはずがお遊戯会で独り踊るプリマのような上手すぎるという違和感。
永瀬正敏の能面のような演技も薄っぺらかった。
監督が「永作さんは○○な感じで、永瀬さんは○○な感じで」と画一的なイメージを押しつけた結果だと考える。おかげで次女役の佐津川愛美が一番自然だったという皮肉。

サトエリ→栗山千明
永瀬正敏→新井浩文
主題歌→筋肉少女帯
 

であったなら、きっともうちょっとマシな映画になってたと思う。
筋少主題歌は「君よ!俺で変われ!」か「釈迦」で。いや、好きだから。(笑)
CMではわかりやすさやインパクトが最優先されるのだろうが、映画を観る連中はバカじゃないんだって。金払って観にくるんだから。
その根本をはき違えるとこういう作品になる、という典型。

30点

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