一部上場の大手企業が新入社員に求める能力、一位は語学力でも専門的スキルでもなく”コミュニケーション能力”だそうである。
そんなもんが有り難がられるくらいに今の若い子は人と接する能力がないのか?とびっくりもするのだが、よく考えると俺らの世代でも空気読めないやつはいたし、上の世代でも”場を壊す”オヤジは多くいた。ただそんなに問題にならなかったのはやつらを許し受け入れる度量が今よりは大きかったからだと思う。
世間の範疇から外れるものを排除する風習は実は以前からあった。部落差別やジェンダー、人種差別など今より明確ですらあったのだ。
しかし、そういうわかりやすい差別が悪しきモノだという考えが「普通」になった時点より人は別の差別を探し始める。「普通」や「当たり前」が幅をきかし、行き着いたところが「空気を読めない」やつに対する蔑みだった。
行間を読めない、人付き合いが悪い、突拍子もないことを口にする、集団行動ができない...一見普通に見えるといった行為は誤解を生んだ。人は得体の知れないものに恐怖をおぼえるからだ。そして集団はそいつを排除し、そいつはさらにコミュニケーション能力を体得する手段を無くしていき、もっと変わり者呼ばわりされていく。
これが現在の差別、社会問題である。
 

茨城で悲惨な事件が起こった。
ある番組で専門家と称する人が、先天性の障害やゲーム脳を絡めて話をしてて、別のコメンテーターは家庭の教育や生活について苦言を言っていた。
ネットでは犯人の名前からまた別の角度から非難されていた。

殺された人や怪我した人は不幸であったし、犯罪は許されるものではないのは明白ではあるが、こういう一件でまた空気を読めないやつらが色眼鏡で見られることを思うと胸が締め付けられる。

どうか優しくて懐の深い社会になってもらいたいものである。

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