スタローンの総括というもの
「ロッキー」から30年、駄作を繰り返した上で「ロッキー・ザ・ファイナル」でスタローンは老いた元チャンプと若い現チャンプの殴り合いをもってロッキーの幕を引いた。1と同じく敗者のカタルシスを感じることができる佳作となった。
一人の映画人として看板映画と呼べるモノがあり、それの落とし前をつけられるのは幸せであろう。しかし、スタローンにはもうひとつの看板タイトルがあった。それのケリをつけないことにはの半生は片手落ちとなってしまう。

それが「ランボー」である。

この「ランボー」、原作の「First Blood」では主人公ランボーは望まないゲリラ戦で警察軍隊を完膚無きまでに叩きのめしたあと自殺して幕を閉じた。映画ではもうちょっとアクション寄りであったが、反戦というメッセージを含んだ原作の影響を受けて多少暗いイメージがあった。そのせいで興行収入も良くなかったが当時台頭してきたレンタルビデオのおかげで公開後に人気が出て「2」以降の作品製作に繋がったというある意味90年代の映画戦略の先駆けであったのだ。
まぁ2以降は90年代ハリウッドのバカアクション映画に成り下がったけどね。
ちなみに邦題「ランボー」がその後のシリーズの題名に逆輸入されたという希な例を持つ作品でもある(豆知識)

枕が長くなったがそれを踏まえての最終作「ランボー 最後の戦場」、悪役を徹底的に悪として描いている。最近では子ども番組の悪役にでさえ「戦う理由」や「人間的魅力」を描くのになんともまぁ潔い。
では過去の作品と同じバカアクションかと言われればさにあらず。スタローンはこっち側(すなわち正義側)の多層的イデオロギーやら心情をぶつけさせることで物語に深みを持たせることとしたのだ。
戦場に存在する人々それぞれに「そこに在る理由」を問うことはすなわちアメリカの庇護の下にいる我々に立ち位置を問うことと同義である。しかも刻一刻を変わる状況はその考える時間すら与えてくれない。このあたりも我々が置かれている立場と似てる。与えられないから考えないのか、とにかく考えてみるのか?結果はどちらも地獄かもしれないが、その差はとても大きいことをランボーは教えてくれる。
そう、スタローンは「ロッキー」で用意した答えと間逆の”勝者のカタルシス”でもって「ランボー」に幕を引いたのだ。

そしてスタローン自らもこの2作で総括した。敗者には敗者の、勝者には勝者の悲喜こもごもがあるってことを己の半生をかけて示してくれた大根俳優に拍手を贈りたい。
年老いたアクション俳優のこれまでにない人間臭い中締めに俺は感涙を禁じ得なかった。まいった、まさか「ランボー」で泣くとは。(笑)

さて、次のスタローン作品はどんなだろうか?
ちゃっかりまたアクションを作るかもしれないし、ラブストーリーに挑戦とかっつー新境地を開いてくれるかもしれない。どっちにしても「中締め散会にあらず」である。またジジィのパワーを見せてもらいたい。

88点

※「ランボー怒りのアフガン」を今観たら面白い。
アフガンのジハード戦士、つまりイスラムゲリラだが、これらが自国を守る良い奴に、ロシアが悪者として描かれている。しまいにはソ連兵に向かって「アフガン侵攻はアメリカがベトナムに攻め込んだみたいなもんだ!奴らは諦めない!」みたいなことをほざいてた。ほんと、どの口がゆーかという話ですわなぁ。
今こそハリウッドでリバイバル希望。

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