「スウィートホーム」鑑賞
幻の壁画を求めて著名な故・間宮氏の屋敷を訪れるテレビクルー。取材を進めるうちレポーターのアスカが奇妙な行動をしはじめる。それはこの屋敷に憑いた死霊のせいだったのだ....
「マルサの女」「タンポポ」の伊丹十三が特殊メイクに大御所ディック・スミス、監督・脚本に黒沢清を迎え作った和製ホラー、とりあえず当時の邦画最高スタッフと技術を結集させた作品となっている。”とりあえず”と書いたのはその技術が当時すでにハリウッドより10年は後れていて、目新しくもなんともなかったからだ。
とはいうものの、ピンク映画から大抜擢され後に「CURE」を作ることになる黒沢清の力量は垣間見ることができる。
さて、この映画は内容云々よりその背景が大変興味深いのでちょこっとご紹介しよう。
当時の日本はレンタルビデオ店の台頭と配給会社の乱立で海外ホラーの大流入のおかげでスプラッタが流行の兆しを見せ、ホラー全般の認知度も上がり始めていた。その新しいジャンルに当時飛ぶ鳥を落とす勢いの伊丹十三が興味を持ったのはある意味必然だった。
「お葬式」は大ヒットしたものの伊丹が本当に作りたかったところの「タンポポ」は興行的に失敗、ちょい大衆に日和った「マルサの女」と「2」は大ヒットと、本人の意に介さない映画が流行る事に対するジレンマがあった。かといって売れない作品、珍しくない作品にお金を出すパトロンはいないし、当時の日本では珍しく伊丹組はカメラマンから照明まで全て自前のスタッフで賄っていたがそいつらの食いぶちもある.....
作りたい作品と売れる作品の間で悩んだ伊丹は”製作総指揮”というプロデュースの道を選ぶ。
「俺には有能なスタッフがいる。才能ある監督(これが黒沢のことだが)も知っている。きっとうまくいく」
伊丹はそう考えたに違いない。
しかし、映画を作っていくうちに黒沢と衝突が始まるようになる。黒沢が”引き”のカメラを要求すると横から伊丹が”寄り”の絵を求めるといったように言い合いは度々起こったらしい。そうなのだ、伊丹は本来ディレクターなのだ。「自分ならこう撮る。自分ならこう作る」という欲やプライドが出てしまったのかもしれない。或いは黒沢に対する嫉妬だったのか。
ともかく映画は完成し、公開、俺なんかは伊丹映画でワースト3に入る作品だが(笑)それなりにヒットした。
しかしその後のビデオ化で伊丹と黒沢の間で金銭問題が浮上、訴訟沙汰になり最高裁まで争われたが黒沢の敗訴と伊丹の自殺でグズグズと終わった。
伊丹を殺したのは黒沢の才能だったのではないか?
従来の日本映画ではなかった新しいテーマと画面づくりは賛否を生むと同時に興行的にも冒険しなければならない。しかし大ばくちをするには伊丹プロは大きくなりすぎてたのだと思う。作品性と収益性との乖離とそれに対するストレスは伊丹には並大抵ではなかった。そんな最中に見てしまった黒沢清の映画作りの才能に大きな嫉妬を抱え込んだことが、自殺の遠因であったと俺は考えてる。
「スウィートホーム」より後半作品はただのジャカジャカうるさい出来損ないの三谷作品っぽい作風であったことや製作総指揮はこの作品一本きり、あとは全て自分で監督したことからも「スウィートホーム」こそが彼の映画人生を狂わせたと推測することができるだろう。
伊丹映画の大半は興行的には成功した。しかし「タンポポ」を越える作品はなかったと思う。黒沢なみに全てを棄てる覚悟があったなら、あるいは「どうせ大衆はこんなの求めてない」というシニカルな青さがなければもっと良い作品が作れたはずである。そんなことを思うとなんとも言えない複雑な気持ちになるのだ。
あ、裁判の問題があってDVD化されてませんのでビデオでどーぞ。
「スィートホーム」
28点
「タンポポ」
90点
幻の壁画を求めて著名な故・間宮氏の屋敷を訪れるテレビクルー。取材を進めるうちレポーターのアスカが奇妙な行動をしはじめる。それはこの屋敷に憑いた死霊のせいだったのだ....
「マルサの女」「タンポポ」の伊丹十三が特殊メイクに大御所ディック・スミス、監督・脚本に黒沢清を迎え作った和製ホラー、とりあえず当時の邦画最高スタッフと技術を結集させた作品となっている。”とりあえず”と書いたのはその技術が当時すでにハリウッドより10年は後れていて、目新しくもなんともなかったからだ。
とはいうものの、ピンク映画から大抜擢され後に「CURE」を作ることになる黒沢清の力量は垣間見ることができる。
さて、この映画は内容云々よりその背景が大変興味深いのでちょこっとご紹介しよう。
当時の日本はレンタルビデオ店の台頭と配給会社の乱立で海外ホラーの大流入のおかげでスプラッタが流行の兆しを見せ、ホラー全般の認知度も上がり始めていた。その新しいジャンルに当時飛ぶ鳥を落とす勢いの伊丹十三が興味を持ったのはある意味必然だった。
「お葬式」は大ヒットしたものの伊丹が本当に作りたかったところの「タンポポ」は興行的に失敗、ちょい大衆に日和った「マルサの女」と「2」は大ヒットと、本人の意に介さない映画が流行る事に対するジレンマがあった。かといって売れない作品、珍しくない作品にお金を出すパトロンはいないし、当時の日本では珍しく伊丹組はカメラマンから照明まで全て自前のスタッフで賄っていたがそいつらの食いぶちもある.....
作りたい作品と売れる作品の間で悩んだ伊丹は”製作総指揮”というプロデュースの道を選ぶ。
「俺には有能なスタッフがいる。才能ある監督(これが黒沢のことだが)も知っている。きっとうまくいく」
伊丹はそう考えたに違いない。
しかし、映画を作っていくうちに黒沢と衝突が始まるようになる。黒沢が”引き”のカメラを要求すると横から伊丹が”寄り”の絵を求めるといったように言い合いは度々起こったらしい。そうなのだ、伊丹は本来ディレクターなのだ。「自分ならこう撮る。自分ならこう作る」という欲やプライドが出てしまったのかもしれない。或いは黒沢に対する嫉妬だったのか。
ともかく映画は完成し、公開、俺なんかは伊丹映画でワースト3に入る作品だが(笑)それなりにヒットした。
しかしその後のビデオ化で伊丹と黒沢の間で金銭問題が浮上、訴訟沙汰になり最高裁まで争われたが黒沢の敗訴と伊丹の自殺でグズグズと終わった。
伊丹を殺したのは黒沢の才能だったのではないか?
従来の日本映画ではなかった新しいテーマと画面づくりは賛否を生むと同時に興行的にも冒険しなければならない。しかし大ばくちをするには伊丹プロは大きくなりすぎてたのだと思う。作品性と収益性との乖離とそれに対するストレスは伊丹には並大抵ではなかった。そんな最中に見てしまった黒沢清の映画作りの才能に大きな嫉妬を抱え込んだことが、自殺の遠因であったと俺は考えてる。
「スウィートホーム」より後半作品はただのジャカジャカうるさい出来損ないの三谷作品っぽい作風であったことや製作総指揮はこの作品一本きり、あとは全て自分で監督したことからも「スウィートホーム」こそが彼の映画人生を狂わせたと推測することができるだろう。
伊丹映画の大半は興行的には成功した。しかし「タンポポ」を越える作品はなかったと思う。黒沢なみに全てを棄てる覚悟があったなら、あるいは「どうせ大衆はこんなの求めてない」というシニカルな青さがなければもっと良い作品が作れたはずである。そんなことを思うとなんとも言えない複雑な気持ちになるのだ。
あ、裁判の問題があってDVD化されてませんのでビデオでどーぞ。
「スィートホーム」
28点
「タンポポ」
90点