最後のゴジラというもの
2005年1月4日 映画
2005年の一発目、お目当ての「カンフーハッスル」はおあずけで子供にせがまれ「ゴジラ FINAL WARS」を観ることになる。
おー、なかなか良い父親ぶりを発揮してるではないか。俺ってば。
と、自画自賛したところで今回の「ゴジラ」はタイトルの通り最後のゴジラとして制作されている。エメリッヒ版ゴジラを作った時点でもう打ち止めだったんじゃなかったのかよ?という至極当然な疑問はこの際置いといて、1990年以降の「ゴジラ」は明らかに迷いながら作られてきたと思う。おかげで客の入りも悪かった。
詳しい興行成績まではわからないが、少なくとも劇場版「コナン」や「犬夜叉」より売れてないはずだ。
原因のひとつには平成「仮面ライダー」や「ウルトラマン」の変化とその戦略の成功があげられよう。
ご存じの通り昨今の「仮面ライダー」はイケメン俳優を使い派手な立ち回りとCG、そしておおよそ幼児にはわかりそうにないストーリーテリングを用い、大人(主にお母さんだな)の鑑賞にも耐えうる作品づくりを善としてきた。戦隊シリーズやウルトラマンも同様だ。これにスポンサーの玩具メーカーからの要望であろう、武器や合体ロボットも多数出演することになった。
果たしてこの戦略は成功することになる(オモチャが売れてレンタルビデオの回転が良くなる)のだが、「ゴジラ」がそのマーケットを横目で見てたことは想像に難くない。
もうひとつは、ファン層の高年齢化とマスの縮小である。「ゴジラ」を楽しみにする客層がマニアといわれる一部のファンのみでかためられてしまったのだ。
いや、これは映画を観る側だけじゃないぞ。作り手もそういうファンばっかりになったってことだ。2000年も越えた現代に
ディテールがどーの、とか
ストーリーがどーの、とか
「モノクロゴジラ」と比べて平然と宣うその厚顔さが「ゴジラ」をがんじがらめにしたといっても過言ではない。
大森一樹や金子修介、手塚昌明(笑)といった日本を代表する監督もその呪縛から逃れることが出来なかった。当然だろう、彼らは「モノクロゴジラ」の洗礼をうけている。新しいゴジラを作るとき、前を見ず、過去のゴジラ作品の方を向いてしまっているのだから。
この二つの要因が「ブサイクなロボットがゴジラにやられる」という愚鈍なプロットを生み出してしまった。
さて、今回の「ゴジラ」には日本映画界の奇才(と言われている)北村龍平が初メガホンをとった。これは東宝が「もうゴジラはや〜〜めた」とさじを投げたことを意味する。日本が誇る怪獣映画も今はもうお荷物以外の何ものでもない。最後だから、売れなくても良い映画だから北村龍平にオファー出来たのだろう。事実、オファーがあって一番びっくりしたのは当の北村監督だという。「俺でいいのか?」といったそうだ。
そうやってできた「FINAL WARS」は度肝を抜く爽快活劇と相成ったのだ。
おそらく、北村はモノクロゴジラを観ていない。喩え観てたとしても特別な思い入れはないと思う。1969年生まれの彼にとってゴジラとは「怪獣大戦争」であり「地球攻撃命令」といった「東宝チャンピオンまつり」の「ゴジラ」なのだ。
おまつりだから、たくさんの怪獣が暴れる、小ネタギャグが随所にちりばめられる、安っぽいとはいえCGやワイヤーを使ったアクションも使う....そういうのがOKなんだな。
この確信的安っぽさはガメラや仮面ライダーのクオリティを基準にする世のお母さんお父さんには受け入れられないだろう。しかし、平成の小学生と昭和40年代の小学生には確実に大受けするはずだ。
北村ゴジラも過去の焼き直しである。しかし、それにしばられてないのがよろしい。
リスペクトや継承が悪いのではない、その余りにも大きな遺物に囚われ過ぎるのがいけないのだ。
「あずみ」で失敗した三流監督の面目躍如であろう。(褒め言葉)
60点
おー、なかなか良い父親ぶりを発揮してるではないか。俺ってば。
と、自画自賛したところで今回の「ゴジラ」はタイトルの通り最後のゴジラとして制作されている。エメリッヒ版ゴジラを作った時点でもう打ち止めだったんじゃなかったのかよ?という至極当然な疑問はこの際置いといて、1990年以降の「ゴジラ」は明らかに迷いながら作られてきたと思う。おかげで客の入りも悪かった。
詳しい興行成績まではわからないが、少なくとも劇場版「コナン」や「犬夜叉」より売れてないはずだ。
原因のひとつには平成「仮面ライダー」や「ウルトラマン」の変化とその戦略の成功があげられよう。
ご存じの通り昨今の「仮面ライダー」はイケメン俳優を使い派手な立ち回りとCG、そしておおよそ幼児にはわかりそうにないストーリーテリングを用い、大人(主にお母さんだな)の鑑賞にも耐えうる作品づくりを善としてきた。戦隊シリーズやウルトラマンも同様だ。これにスポンサーの玩具メーカーからの要望であろう、武器や合体ロボットも多数出演することになった。
果たしてこの戦略は成功することになる(オモチャが売れてレンタルビデオの回転が良くなる)のだが、「ゴジラ」がそのマーケットを横目で見てたことは想像に難くない。
もうひとつは、ファン層の高年齢化とマスの縮小である。「ゴジラ」を楽しみにする客層がマニアといわれる一部のファンのみでかためられてしまったのだ。
いや、これは映画を観る側だけじゃないぞ。作り手もそういうファンばっかりになったってことだ。2000年も越えた現代に
ディテールがどーの、とか
ストーリーがどーの、とか
「モノクロゴジラ」と比べて平然と宣うその厚顔さが「ゴジラ」をがんじがらめにしたといっても過言ではない。
大森一樹や金子修介、手塚昌明(笑)といった日本を代表する監督もその呪縛から逃れることが出来なかった。当然だろう、彼らは「モノクロゴジラ」の洗礼をうけている。新しいゴジラを作るとき、前を見ず、過去のゴジラ作品の方を向いてしまっているのだから。
この二つの要因が「ブサイクなロボットがゴジラにやられる」という愚鈍なプロットを生み出してしまった。
さて、今回の「ゴジラ」には日本映画界の奇才(と言われている)北村龍平が初メガホンをとった。これは東宝が「もうゴジラはや〜〜めた」とさじを投げたことを意味する。日本が誇る怪獣映画も今はもうお荷物以外の何ものでもない。最後だから、売れなくても良い映画だから北村龍平にオファー出来たのだろう。事実、オファーがあって一番びっくりしたのは当の北村監督だという。「俺でいいのか?」といったそうだ。
そうやってできた「FINAL WARS」は度肝を抜く爽快活劇と相成ったのだ。
おそらく、北村はモノクロゴジラを観ていない。喩え観てたとしても特別な思い入れはないと思う。1969年生まれの彼にとってゴジラとは「怪獣大戦争」であり「地球攻撃命令」といった「東宝チャンピオンまつり」の「ゴジラ」なのだ。
おまつりだから、たくさんの怪獣が暴れる、小ネタギャグが随所にちりばめられる、安っぽいとはいえCGやワイヤーを使ったアクションも使う....そういうのがOKなんだな。
この確信的安っぽさはガメラや仮面ライダーのクオリティを基準にする世のお母さんお父さんには受け入れられないだろう。しかし、平成の小学生と昭和40年代の小学生には確実に大受けするはずだ。
北村ゴジラも過去の焼き直しである。しかし、それにしばられてないのがよろしい。
リスペクトや継承が悪いのではない、その余りにも大きな遺物に囚われ過ぎるのがいけないのだ。
「あずみ」で失敗した三流監督の面目躍如であろう。(褒め言葉)
60点