喧嘩上等映画というもの
2005年2月4日 映画
なにかと評判な井筒監督が「ゲロッパ!」に続いて制作した「パッチギ!」。前作はそのテーマと作り方の古さから低い評価をした俺であるが、今作もその延長上にあるものの、ここまで我を通して怒濤の青春群像を描ききるとは見事としか言いようがない、参った。素直に兜を脱ぎます。井筒監督、ごめんなさい。
1968年京都、朝鮮高校生徒と日頃からなにかとぶつかり合うことに業を煮やした東高校の布川先生は親善サッカー試合を提案する。その申し込みに向かう康介はキョンジャという女の子に一目惚れ、しかしその子の兄は皆が恐れる朝鮮高校番長のアンソンだった....
「チルソクの夏」が女の子から見た「ロミオとジュリエット」なら「パッチギ!」は男の子から見たそれであろう。
国という名の障害は一高校生の手に負えるものではない。その子のことがどんなに好きでも、儚い青春の想いは将来を約束できるものではないからだ。だから大人は目をつぶりお互いを排除しようと防衛本能を働かせる。上辺では仲良くなったつもりでも超えられない壁を作るのだ。
でも子供達にはそんな遠慮はないし、できない。朝鮮の番長は祖国でサッカー選手になるという思いと現状のもどかしさを自らの拳にため込み日本人をボコボコにするし、日本人のノンポリ青年はただ好きな子が朝鮮人だからってことで朝鮮語辞書を買ってハングルを勉強し、ギターで「イムジン川」を覚える。そんな子供を互いの国の大人たちは白い目で見る....「そんなことしてなんになるのか?」と。
この映画のキャッチコピーは「世界は、愛で変えられる。」だけど、映画では全然そんなシーンはない。むしろどんどん関係が悪化するような描写すらある。実際クライマックスでも日本と朝鮮の和解やそれぞれの登場人物の心情が劇的に変化することはない。「世界は、愛では変えられない」のだ。
結局日本人と朝鮮人は解り合えない。お父さんやお母さんや先生の言った通り、愛だの恋だのは若気の至りで通り一遍で片づく熱病みたいなもんなのだ。
....ほんとにそうか? 否、桃子の出産とアンソンの決意、康介のキョンジャに対する一言は次世代に微かではあるけれど大きな希望を遺しているのだと思う。
実際を見てみると、残念ながら次世代の2004年になってもわだかまりは残ってしまっているんだけど、それでもいいのよ、俺らは次の世代に友好の希望を託してそしてまた殴り合えばいいのだから。(笑)
良い映画でした。80点
1968年京都、朝鮮高校生徒と日頃からなにかとぶつかり合うことに業を煮やした東高校の布川先生は親善サッカー試合を提案する。その申し込みに向かう康介はキョンジャという女の子に一目惚れ、しかしその子の兄は皆が恐れる朝鮮高校番長のアンソンだった....
「チルソクの夏」が女の子から見た「ロミオとジュリエット」なら「パッチギ!」は男の子から見たそれであろう。
国という名の障害は一高校生の手に負えるものではない。その子のことがどんなに好きでも、儚い青春の想いは将来を約束できるものではないからだ。だから大人は目をつぶりお互いを排除しようと防衛本能を働かせる。上辺では仲良くなったつもりでも超えられない壁を作るのだ。
でも子供達にはそんな遠慮はないし、できない。朝鮮の番長は祖国でサッカー選手になるという思いと現状のもどかしさを自らの拳にため込み日本人をボコボコにするし、日本人のノンポリ青年はただ好きな子が朝鮮人だからってことで朝鮮語辞書を買ってハングルを勉強し、ギターで「イムジン川」を覚える。そんな子供を互いの国の大人たちは白い目で見る....「そんなことしてなんになるのか?」と。
この映画のキャッチコピーは「世界は、愛で変えられる。」だけど、映画では全然そんなシーンはない。むしろどんどん関係が悪化するような描写すらある。実際クライマックスでも日本と朝鮮の和解やそれぞれの登場人物の心情が劇的に変化することはない。「世界は、愛では変えられない」のだ。
結局日本人と朝鮮人は解り合えない。お父さんやお母さんや先生の言った通り、愛だの恋だのは若気の至りで通り一遍で片づく熱病みたいなもんなのだ。
....ほんとにそうか? 否、桃子の出産とアンソンの決意、康介のキョンジャに対する一言は次世代に微かではあるけれど大きな希望を遺しているのだと思う。
実際を見てみると、残念ながら次世代の2004年になってもわだかまりは残ってしまっているんだけど、それでもいいのよ、俺らは次の世代に友好の希望を託してそしてまた殴り合えばいいのだから。(笑)
良い映画でした。80点