70年代後半から80年代にかけて彼は紛れもなくお笑い界を背負って立っていた。
「欽ちゃんのドーンとやってみよう」「欽ちゃんのどこまでやるの?」「欽ちゃんの週刊欽曜日」と各局に看板番組を持ち”視聴率100%男”という異名まで持っていたのだ。
彼はお笑い素人のいじり方が天才的に巧かった。良い子悪い子普通の子、のぞみかなえたまえ、気仙沼ちゃんをはじめ多くの素人を人気者にしただけでなく、おおよそお笑い向きとは思えない有名芸能人をもいじり倒し新たな魅力を引き出していった。
これがきっかけで芸能界デビューした者やブレイクした芸能人は数知れず、彼らはその男のことを尊敬の念をこめて”大将”と呼んだ。古くは見栄晴からはしのえみまで続く欽ちゃんファミリーと言われる集団である。

そんな欽ちゃんが突然休養を発表したのは85年。全盛期の勢いに陰りが出てきたとはいえまだまだレギュラー番組を多数かかえてた最中であった。彼の頭の中では鋭気を養い再び全盛期の栄華を極めようと思ってたに違いない。
しかし半年後、彼を迎えるテレビ局は皆無だった。

彼は焦った。
漫才ブームからはじまった新しいお笑いムーブメントが「俺たちひょうきん族」で主流になったとはいえ、自分の芸風がここまで通用しなくなったことが信じられなかったからだ。
それがビートたけしをはじめとするあの世代の芸人を揶揄するに至り、更にお笑い界から干される要因になるのだが、それすらも感じ取ることができないくらいグズグズだったのだ。
そこで彼のとった手段は持ち前の素人いじりに浪花節的感動物語をふりかけることで”笑って泣けるプレゼンター”という立ち位置の確立であった。
「仮装大賞」「24時間テレビ」だけでなくスポットテレビ出演での大袈裟なまでのリアクションや共演者が毒舌すら言えず、腫れ物に触るような態度は白々しさを通り越して痛々しいくらいと俺なんかは感じてたのだが、世間では結構好意的に捉えられてたようである。

それに味をしめてか平成になってもそのスタイルを変えようとはせず、子飼いのディレクター・作家・芸人をパシリにして居場所を確保していくことになる。
茨城ゴールデンゴールズの結成もその延長線上にあり、今回の解散騒動もまたその流れであろう。だから余計腹が立ったのだな。
 
小堺と関根さんはとっとと引導渡してあげてください。

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