オトコとオンナとそれぞれの母親考というもの
2003年11月11日 ちょっと考えてみた待ってる女と待たせる男
言葉が欲しい女と言わない男
手を繋ぎたい女と挿入たい男
追う女と逃げる男
男と女というものは何故コミニュケーションをとるのがヘタなのか?
一言でいっていまえば「お互いに甘えてるから」という答えに集約される。
ハイおしまい。
ってーのもつまらないのでその解に至る証明をしていきたいと思う。
男が理想の女性像を語るとき、一つのベンチマークがあるのをご存じだろうか?それは「母親」あるいは「長期にわたり母親然と接してきた女性」である。生物は己の性質というものをそう劇的に変化させることはできない。性格も然りである。幼少の頃から接してきた女性はその本人の考え方から行動パターンをおおよそ予測することができるものなのである。子供を持つ母親やそれに近い親族関係にある方なら想像に難くないであろう。母親にとって息子はいくつになっても自分の手のひらで遊ぶかわいい存在であり、息子であるが故に無償の愛を出来る限り注ごうとする。しかし息子はある時期になると劇的に変化するのである。第二次反抗期だ。
第二次反抗期を迎えると男は肉体的な変化や環境の変化を経てしだいに母親を毛嫌いしはじめる。個を意識し出した本人にとって、過保護に思える母親は鬱陶しい存在になるわけだ。そして母親の愛の圏外に離脱していく。これが二次反抗期の儀式であり意義で俗に言うところの「親離れ」にあたる。ある生物学者はこれを「近親相姦を嫌ったDNAの仕業」と論じているように、精神的に求める対象を強制的に外に向けることで人類の繁栄をもくろむという生物の摩訶不思議な現象のひとつに数えられるであろう。母親にとってそれは受け入れがたいものだが社会的肉体的にその愛を変質させて納得するようになる。それが母親の「子離れ」である。
(この部分、社会学者の中には「愛の対象がない故に子離れができない」「パラサイトシングル」だのテキトーなことを言ってるやつが多いがそんなごく一部の表面的なことばっかり結果論でほざいてるから社会学はダメって烙印を押されるのだ(T^T)。ワイドショーや週刊誌ばっかりみてないで生物学や行動学の勉強しなさい>社会学者&ジェンダー論者)
さて、子離れした親が愛を変質させたように、親離れした子も変質する。ただ、親の子に対して愛を変質させたのとは違い、子は他の女性に母親からもらった愛と同等なものを求めるようになり、母親を不要とするのである。実はこれが永らく続く嫁姑問題の根元となるのだが、ここでは割愛させてもらおう。
注意しなければならないのは求める女性が外見や性格的に母親と必ずしも同じタイプというわけではないということだ。では共通点はなにか?それは「自分が母からもらった愛情と同様なものを与えてくれるかどうか」この一点である。
自分が好きなように甘えられる。慰めてもらえる。諫めてももらえる。そして巣立って(無視しても)も文句言われない....
それが母親の愛、つまるところ男性の根元的に欲する愛なのだ。
もちろんこれには欲求の大小やバランスの違いが個体差にはあるということを付け加えておく。
女性の愛はどうだろうか。
女の子は男の子と違い比較的早い時期から社会性が身に付くと言われている。男子の書く絵がみんなバラバラなのに女子の書く絵(大概はお花や女の子だが)はみんな驚くほど似通っている。これは偶然ではなくて女子が他者を理解し、観察する能力に長けていることの証明である。このように、同性と異性の区別を早い段階からつけた女子は両親や周りの人間から男女の違いを学習するようになる。これによって女子の親離れは男子よりもスムースにいくことが多い。母親の方も女性同士で互いの不可分領域の線引きがやりやすいということでスムースに子離れができる傾向にあるようだ。
で、相手にも同等の距離感と対応を求める。娘と母親が友達のように、つまり一個の他人として接することができるのを見ると明らかだろう。
かように女子と母親、男子と母親は関係性に決定的な差があると考えられる。
それらを理解してないといつまでたっても平行線なワケだな。
で、何が言いたいかと言うと、オトコはそういうもんなんだ、ということね。(笑)
まとめきれずにつづく....
******
傲慢な手に 砂の城朽ちて 血に染める
行くが正義か 引くが正義か
言葉が欲しい女と言わない男
手を繋ぎたい女と挿入たい男
追う女と逃げる男
男と女というものは何故コミニュケーションをとるのがヘタなのか?
一言でいっていまえば「お互いに甘えてるから」という答えに集約される。
ハイおしまい。
ってーのもつまらないのでその解に至る証明をしていきたいと思う。
男が理想の女性像を語るとき、一つのベンチマークがあるのをご存じだろうか?それは「母親」あるいは「長期にわたり母親然と接してきた女性」である。生物は己の性質というものをそう劇的に変化させることはできない。性格も然りである。幼少の頃から接してきた女性はその本人の考え方から行動パターンをおおよそ予測することができるものなのである。子供を持つ母親やそれに近い親族関係にある方なら想像に難くないであろう。母親にとって息子はいくつになっても自分の手のひらで遊ぶかわいい存在であり、息子であるが故に無償の愛を出来る限り注ごうとする。しかし息子はある時期になると劇的に変化するのである。第二次反抗期だ。
第二次反抗期を迎えると男は肉体的な変化や環境の変化を経てしだいに母親を毛嫌いしはじめる。個を意識し出した本人にとって、過保護に思える母親は鬱陶しい存在になるわけだ。そして母親の愛の圏外に離脱していく。これが二次反抗期の儀式であり意義で俗に言うところの「親離れ」にあたる。ある生物学者はこれを「近親相姦を嫌ったDNAの仕業」と論じているように、精神的に求める対象を強制的に外に向けることで人類の繁栄をもくろむという生物の摩訶不思議な現象のひとつに数えられるであろう。母親にとってそれは受け入れがたいものだが社会的肉体的にその愛を変質させて納得するようになる。それが母親の「子離れ」である。
(この部分、社会学者の中には「愛の対象がない故に子離れができない」「パラサイトシングル」だのテキトーなことを言ってるやつが多いがそんなごく一部の表面的なことばっかり結果論でほざいてるから社会学はダメって烙印を押されるのだ(T^T)。ワイドショーや週刊誌ばっかりみてないで生物学や行動学の勉強しなさい>社会学者&ジェンダー論者)
さて、子離れした親が愛を変質させたように、親離れした子も変質する。ただ、親の子に対して愛を変質させたのとは違い、子は他の女性に母親からもらった愛と同等なものを求めるようになり、母親を不要とするのである。実はこれが永らく続く嫁姑問題の根元となるのだが、ここでは割愛させてもらおう。
注意しなければならないのは求める女性が外見や性格的に母親と必ずしも同じタイプというわけではないということだ。では共通点はなにか?それは「自分が母からもらった愛情と同様なものを与えてくれるかどうか」この一点である。
自分が好きなように甘えられる。慰めてもらえる。諫めてももらえる。そして巣立って(無視しても)も文句言われない....
それが母親の愛、つまるところ男性の根元的に欲する愛なのだ。
もちろんこれには欲求の大小やバランスの違いが個体差にはあるということを付け加えておく。
女性の愛はどうだろうか。
女の子は男の子と違い比較的早い時期から社会性が身に付くと言われている。男子の書く絵がみんなバラバラなのに女子の書く絵(大概はお花や女の子だが)はみんな驚くほど似通っている。これは偶然ではなくて女子が他者を理解し、観察する能力に長けていることの証明である。このように、同性と異性の区別を早い段階からつけた女子は両親や周りの人間から男女の違いを学習するようになる。これによって女子の親離れは男子よりもスムースにいくことが多い。母親の方も女性同士で互いの不可分領域の線引きがやりやすいということでスムースに子離れができる傾向にあるようだ。
で、相手にも同等の距離感と対応を求める。娘と母親が友達のように、つまり一個の他人として接することができるのを見ると明らかだろう。
かように女子と母親、男子と母親は関係性に決定的な差があると考えられる。
それらを理解してないといつまでたっても平行線なワケだな。
で、何が言いたいかと言うと、オトコはそういうもんなんだ、ということね。(笑)
まとめきれずにつづく....
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傲慢な手に 砂の城朽ちて 血に染める
行くが正義か 引くが正義か