例えば、俺が愛する人を殺されたら
殺した相手を同じように殺したいと思うだろう。

遺族感情としては至極当然である。
でもそれと同じくらい確信的に感じるのは、10年も経てば怒りの感情は薄らいでいくだろうということだ。
何年もモチベーションを保つことはできない。俺は。
そしてその心情変化は俺が冷徹な人間だからというワケではなく、被害者遺族の中にも少なからずそういった心情を持つ者がいると考える。

何故なら想い続けるというのは辛いことだから。そして人は飽きたり忘れたりしちゃう動物だと思うから。
それはとても淋しくて哀しいことだけど、遺された人には生活もあるし、なにより忘れない事には前に進めない。
みんなが会社を辞めて講演活動で飯を食うなんてことは出来ないのだから。
 
遺族感情を留意する、という最近の司法判断は”大岡裁判”とも言えるが、一歩間違うと”魔女裁判”になる。あやふやな感情論のみで突っ走る先に未来はないということに気付かないといけない。そういう黒歴史があるからこそ判例という基準を作ったのではなかったか?
 

誤解ないように書くと、俺は死刑肯定論者である。

http://diarynote.jp/d/38325/20040802
http://diarynote.jp/d/38325/20031025
↑このあたり参照

収容所や刑務所のキャパの問題、凶悪犯の再犯率、犯罪者や被害者の人権、歴史を考えると、日本の風土には死刑は適してると考えるから。

相応の罪には相応の刑罰が定められている。「お前は最低なやつだから死刑」じゃダメなのだ。ということで、法治国家の根本を変えなかった最高裁の判断は今回は正しかったとみていいだろう。

そして絶対的な善悪など世の中にはひとつもないということを知らなければならない。
それを判ってないと、加害者に「死刑にしてもらいたい!」と憤った返す刀で飢餓に苦しむ人の為だといってホワイトバンドなんぞを買ったりするハメになるから。

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