以前、ここでも書いたのだが目に余るのでもう一度書く。
なにか?日本アニメ史上最低の唾棄映画「火垂るの墓」についてである。

次男坊(小学3年生)の授業で上映したそうだ。で、感想文提出。どう思った?と聞いてみると「戦争はひどい」とのこと。
物語の上っ面しかとらえることのできない小学生低学年ならたぶんみんなそう答えるであろう。「恐い」「かわいそう」という感想もあると思う。
問題はそれを薦める先生や「せっちゃんかわいそう」と毎年涙を流す大人たちである。貴様らまで小学生低学年レベルでどーするよ?

この映画は戦争という大きな背景はあるものの、物語のフローチャートを追っていくとせっちゃんの死の直接が戦争ではないことがすぐわかる。
直接原因は「意固地な兄が意地を張りすぎた」ことである。そのせいで「幼い妹を餓死させ自分も死んだ」。それはとても悲しい物語であるが、となるとこの映画の主旨は
1「意地を張っちゃいけないよ。日和っても生きてさえいれば幸せになれるよ」
または
2「不幸にも死んじゃったけど、どんな小さな命でも生きた証があるんだよ」
であるべきなのだ。教育的な映画として上映するならくわえて目的であるモノをも制作者は示さなければならないと考える。
ところがこの映画にはそれを指す描写は微塵もない。
画面に映るのは兄妹の悲惨な穴ぐら生活とそれと対比するような上流階級の子供、そして意地悪な親戚や自分たちには目もくれない一般人である。
監督脚本の高畑勲はなぜこの人たちを登場させたのか?この登場人物を描かなければならなかった理由はなにか?
答えはひとつ、せっちゃんを殺すため だけである。

そう、この物語はせっちゃんをいかに殺すか?ということをモチーフに肉付けされているのだ。
たとえば現実では当時の日本には戦災孤児であふれかえってた。彼らは泥水をすすり、アメリカ人に媚びを売り、時には万引きなんぞをして生き、現在の繁栄日本の礎を築いてきた。そんな戦災孤児がたくさんいるなかで、両親が死んでも頼れる親戚があるということがどれだけ幸せであろうか?しかし、そういうシーンは意識的にカットしてある。なぜなら、そういう孤児を画面に登場させちゃうと兄妹が「可哀想」じゃなくなるからだ。
たとえば兄の性格、当時の14歳は少なくとも現在の14歳に比べると分別や生活力忍耐力はあるだろう。にもかかわらずあの精神構造ならびに行動パターンはもはや病的と言わざるを得ない。
つまりリアリティが皆無なのだ。

いや、映画はフィクションである。物語を100分の時間内に明確に表現するため多少の嘘ごまかしは必要だ、という意見ももちろんあるだろう。俺も嘘の世界観に浸り涙を流すことを否定するつもりはない。
しかし、愛する者を殺すために取捨選択された「火垂るの墓」で涙を流すことは断固拒否したい。この物語は人に対する愛情に欠けた者達が己のイデオロギーを叫びたいがためにアニメという隠れ蓑を使って作った映画だからだ。

21世紀の大人なら原作の野坂昭如と高畑勲の薄っぺらい左翼イデオロギーへの同情とそれによって殺されたせっちゃんが毎年毎年さらし者のようにテレビで上映されるたびに心を痛めないといけないはずだ。
こともあろうに学校教育者がそんなこともわからんとは.....

日本の夜明けはまだまだ遠いのか。
-100点

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