昨日の日記、過激なタイトルと身を削った渾身の一本と思ってたがイマイチ反応がよろしくないようだ。
今回は「名古屋の風俗嬢は何故レベルが高いか?」というお話を書こうと思っていたが、もう少し手淫ネタに付き合っていただこう。だって悔しいんだもん。
一般的に「子供が産まれました」、すなわち公然と「私たちはセックスをしました」と報告できるが、比べてオナニーは人様に報告しない。
さらにテレビではお笑いの人もあまりオナニーネタをしない。昼間の番組はまず御法度だろう。何故か?たまにはキラリと汗を光らせて「スッキリしました」と報告してもいいじゃないか。
セックスに比べてオナニーの方が罪悪感がある。
自分が悪い事をしてるのではないかと自分を責めたり、自分には誘惑に打ち勝つだけの心の強さが無いと自己否定したり、自分はおかしいと自己像を歪曲して捉えたりする人も多いらしい。
そもそもオナニーが悪いことだという認識は近代になってからのことである。
キリスト教では古くからマスターベーションを戒めてきた(マスターベーションという語源のラテン語は「手を汚す」の意味であり、否定的意味合いが強い)、その思想が西洋文明とともに日本に流入したのと、明治時代の「富国強兵・産めよ殖やせよ」制度が非生産的なオナニーを「悪」としたからだ。ちなみにこの思想は当然学校教育にも繰り入れられ、戦後から高度経済成長世代の性教育では「オナニーは悪いこと」「オナニーをすると馬鹿になる、健康に悪い」という教育方針であった。事実として、江戸時代までは、多くの人たちが開放的にマスターベーションを楽しんでいたのだから、現在のモラルの根元はここが起点である。
しかし、現在はセックスすらファッション化し、子供を産まない夫婦も数多い。セックスが本来の意味をなしてないにも関わらず、オナニーだけが前時代的な価値観で扱われるのは不当ではないか?
21世紀を迎えて3年、そろそろオナニーにも自立してもらいたいと考えるのだな。
もうひとつ、コミュニケーション論からオナニーを考察した方がいるのでご紹介しよう。大変すばらしい視点だと思う。長い引用になるがご容赦いただきたい。
*****引用*****
これまで大人たちは、マスターベーションは無害だと言いつつも、やり過ぎるなとか、清潔に気をつけろとか、一見親切なアドバイスをしてきた。でも、これらのアドバイスには何ら根拠はないのだ。考えてみれば分かるが、今まで、やり過ぎで入院したとか、死んでしまったとか言う話は聞いた事がない。
大人たちの本音は、子どもたちになるべくマスターベーションをさせたくないのだ。子どものプライベートを出来るだけ自分のモノにしておきたいと願うところがあるからね。
マスターベーションは子どもが子ども独自の事柄や時間、つまり親も踏み込めないプライバシーを持つという事で、これは大人本来の願望に反する。
また、それは子どもが子どもでなく、親と同じ大人に近づく事で、これは親の存在を脅かす事にもつながる。
心理学では「娘が子どもでなく大人の女性になれば、母親は大人の女性のライバルを一人身近に増やす事になる。息子が大人の男性になれば、父親は親としてだけでなく一人の男性として息子に対峙させられる」と説明されるところだ。
だから親や大人たちは、頭の中ではマスターベーションが何ら害が無いと知りつつ、心の中まではそれを受け入れられないのだ。根底には、「性」に関する事柄に対する偏見も根強くあるしね。
日本も含めて多くの国々では、マスターベーションは性交が社会的に認められるようになるまでの代償的必要悪としてやも得ず受け入れられてきた。
何でかと言うと、人間の性は、人という労働力を生み出すという生産的な面(人口の増加)だけが社会的に認められ、マスターベーションの様な個人の性は非生産的だとして否定的に受け止められてきた。子どもを産まない女、子どもを産めない女、労働力にハンディを持った障害を持った人たちにとても社会は冷たかったのだ。
人間の性を、生産的か、非生産的かって価値観で見ることを止め、ありのままの人間の性を受け入れるという事は、言うは易しで行うは難しだ。子どもも大人も、マスターベーションを必要悪としてや、性交の代償としてではなく、人間本来の極めて自然な行動の一つとして、知識としても、感覚的にも受け入れられるかどうかって事を克服していく必要があるのだ。
http://www.asobiya.net/denkon/D1/a.html
****引用終了******
まさしく、これが次世代のオナニー論であろう。モラル オブ オナニー。
さぁ!みんな!安心してレッツ手淫。(笑)
******
生きるよと 懸命に泣く 箱の中
十カ年目を 共に祝おう
今回は「名古屋の風俗嬢は何故レベルが高いか?」というお話を書こうと思っていたが、もう少し手淫ネタに付き合っていただこう。だって悔しいんだもん。
一般的に「子供が産まれました」、すなわち公然と「私たちはセックスをしました」と報告できるが、比べてオナニーは人様に報告しない。
さらにテレビではお笑いの人もあまりオナニーネタをしない。昼間の番組はまず御法度だろう。何故か?たまにはキラリと汗を光らせて「スッキリしました」と報告してもいいじゃないか。
セックスに比べてオナニーの方が罪悪感がある。
自分が悪い事をしてるのではないかと自分を責めたり、自分には誘惑に打ち勝つだけの心の強さが無いと自己否定したり、自分はおかしいと自己像を歪曲して捉えたりする人も多いらしい。
そもそもオナニーが悪いことだという認識は近代になってからのことである。
キリスト教では古くからマスターベーションを戒めてきた(マスターベーションという語源のラテン語は「手を汚す」の意味であり、否定的意味合いが強い)、その思想が西洋文明とともに日本に流入したのと、明治時代の「富国強兵・産めよ殖やせよ」制度が非生産的なオナニーを「悪」としたからだ。ちなみにこの思想は当然学校教育にも繰り入れられ、戦後から高度経済成長世代の性教育では「オナニーは悪いこと」「オナニーをすると馬鹿になる、健康に悪い」という教育方針であった。事実として、江戸時代までは、多くの人たちが開放的にマスターベーションを楽しんでいたのだから、現在のモラルの根元はここが起点である。
しかし、現在はセックスすらファッション化し、子供を産まない夫婦も数多い。セックスが本来の意味をなしてないにも関わらず、オナニーだけが前時代的な価値観で扱われるのは不当ではないか?
21世紀を迎えて3年、そろそろオナニーにも自立してもらいたいと考えるのだな。
もうひとつ、コミュニケーション論からオナニーを考察した方がいるのでご紹介しよう。大変すばらしい視点だと思う。長い引用になるがご容赦いただきたい。
*****引用*****
これまで大人たちは、マスターベーションは無害だと言いつつも、やり過ぎるなとか、清潔に気をつけろとか、一見親切なアドバイスをしてきた。でも、これらのアドバイスには何ら根拠はないのだ。考えてみれば分かるが、今まで、やり過ぎで入院したとか、死んでしまったとか言う話は聞いた事がない。
大人たちの本音は、子どもたちになるべくマスターベーションをさせたくないのだ。子どものプライベートを出来るだけ自分のモノにしておきたいと願うところがあるからね。
マスターベーションは子どもが子ども独自の事柄や時間、つまり親も踏み込めないプライバシーを持つという事で、これは大人本来の願望に反する。
また、それは子どもが子どもでなく、親と同じ大人に近づく事で、これは親の存在を脅かす事にもつながる。
心理学では「娘が子どもでなく大人の女性になれば、母親は大人の女性のライバルを一人身近に増やす事になる。息子が大人の男性になれば、父親は親としてだけでなく一人の男性として息子に対峙させられる」と説明されるところだ。
だから親や大人たちは、頭の中ではマスターベーションが何ら害が無いと知りつつ、心の中まではそれを受け入れられないのだ。根底には、「性」に関する事柄に対する偏見も根強くあるしね。
日本も含めて多くの国々では、マスターベーションは性交が社会的に認められるようになるまでの代償的必要悪としてやも得ず受け入れられてきた。
何でかと言うと、人間の性は、人という労働力を生み出すという生産的な面(人口の増加)だけが社会的に認められ、マスターベーションの様な個人の性は非生産的だとして否定的に受け止められてきた。子どもを産まない女、子どもを産めない女、労働力にハンディを持った障害を持った人たちにとても社会は冷たかったのだ。
人間の性を、生産的か、非生産的かって価値観で見ることを止め、ありのままの人間の性を受け入れるという事は、言うは易しで行うは難しだ。子どもも大人も、マスターベーションを必要悪としてや、性交の代償としてではなく、人間本来の極めて自然な行動の一つとして、知識としても、感覚的にも受け入れられるかどうかって事を克服していく必要があるのだ。
http://www.asobiya.net/denkon/D1/a.html
****引用終了******
まさしく、これが次世代のオナニー論であろう。モラル オブ オナニー。
さぁ!みんな!安心してレッツ手淫。(笑)
******
生きるよと 懸命に泣く 箱の中
十カ年目を 共に祝おう