ん〜〜〜〜....
どうにも理解できなかった、というのが印象だ。

監督の意図してるのは前半のフィクション(リベラルな女子学生の行動と内面)と後半のノンフィクション(中流家庭を撮影するアマチュア映画監督)を通して「フィクションはすべからくノンフィクション的要素を含み、ノンフィクションは限りなくフィクションに近い」ということを言いたいのだろうと思う。
その屋台骨の上に、「ニガーとファック」やら「小児麻痺な彼氏」やら「貧困者差別」やら「卑しいユダヤ人」やら悪趣味なエピソードがちりばめられる。問題はそのエピソードがホントにただちりばめられてるだけなのだ。

この映画を観て「いやぁアメリカの病理がよくわかる」と納得する手もアリなんだろうけど、この監督は告発めいたことを言いたいワケじゃないはず。さりとて「ストーリー」を構築する日常をただ見せられても「はぁそうですか」というしかない。

「結末をどう捉えるかは皆さん次第です」ってやつですか?

それならもうちょっとエキセントリックに行かないとだめだろ。
この映画を褒めちぎってた宮藤官九郎、大丈夫か?

20点

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