そー言えば最近詠ってない。
「三十文字的通信性」とかタイトルを付けてるクセにちょっとサボってる。
毎日短歌や俳句を詠むという行為は題材が必要なので、風景を観察する目が養われる。五七五あるいは五七五七七という枠で全てを表現せねばならんのと数多ある季語を知ることで国語力をつけることができる。
国語偏差値40台の俺にはうってつけの勉強方法でなのだが、いかんなぁ...真面目にやんないと。

小学校の担任が俳句が好きで生徒につくらせていた。季語も字数もいい加減だ。ただ「感じたことを言葉にしてみろ」「人真似はするな」それだけ。
書いた散文の中で必要な言葉を選び他を捨て、その言葉を膨らませる作業を経て五七五のリズムに乗せる。個人が感じたことを歌にするのだから優劣はない。
そう教えられた。
中学のとき小林一茶にちなんだ全国俳句大会で「仁」賞(佳作程度か)をもらったのだが、この句がテキトーに考えて思い入れもなんにもない句だったので、所詮俳句といっても50音の言葉遊びか、と急に熱が冷めた。国語嫌いってのもあったし(笑)。
短歌に出会ったのは社会人になってから。
誰の歌か忘れたが
「あの角で 金木犀が咲くことも 知らないでいた サヨナラというまで」
という歌に衝撃を受けたからだ。
当時、フラれたばっかだったので余計心に染みたのだろう(笑)

言葉自体に力はない。
でも、魂をこめる器にはなる。
一字一句を大切に綴れば珠玉の歌になるはずなのだ。
俺もそんなのを目指したいもんである。

日に焼けた 鎖骨に残す 赤い痕
 蛍に煽られ 甘ゆく香る

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