昨日、暇つぶしにした献血のデータが郵送されてきた。
多少ヤバめの数値はあるものの、おおむね平均値。ちょっとホッとする。
いつもかわいがってもらってる先輩とつるんで遊んでる友人の御尊父が奇しくも同じ日に亡くなった。ひとりは肝臓ガン、もうひとりは自殺。
ガンのほうはお通夜に出席。ご家族ご親類の方々もある程度の覚悟があったのだろう、サバサバとした印象を受けた。
自殺のほうは告別式に出席したが、まだ事態を飲み込めてないのだろう、不安そうな面もちだった。

駅前で反戦反核の抗議集会があった。
「戦後58年、今も核汚染で苦しみながら死んでいく人がいます!」
20歳で被爆してたらもう78歳だ、そんなの原爆関係なく普通死ぬだろ?というツッコミはなく、マイクをもったおばちゃんは感極まって涙声になっている。

俺は唯物論者だ。
人は死ねば無になると本気で考えてるし、霊魂や死後の世界もないと信じてる。
だから葬式や仏壇なんか無意味だと思ってた。

威厳のあった祖父が病気で日に日に小さく弱くなっていく姿を見て、他人事のようにみっともないと思ってた。自分は覚悟をもって生きよう、と。
俺は20歳過ぎたあたりから漠然と、ホントにくだらない理由で49歳で死ぬと考えてた。だからそれまでのグランドデザインを書いてたし、悔いのないように生きようと、結婚してからもそれに合わせて行動してたところあった。子供が産まれてもその気持ちはかわらなかったが、あるとき嫁さんにその話をしたとき、寂しそうな顔をしたのを見て、恥ずかしながらようやく気付くことになる。
自分ひとりではないのだ、俺の人生は誰かの人生に影響を与えるようになってしまったのだ、と。

死に方には正誤があると思う。49歳で死ぬために人生を設計することはたとえそれがどんな覚悟をもったことだとしても、わがままで利己的な間違いだろう。年間3万人を越える自殺者の中でそのことに気付かない人が居たとしたら...不幸であろう。
若くしてガンで死ぬ人も遺す者に伝えるべきことを伝えて安らかに死ねるなら正しいのだと思う。
先の大戦で国のために死んでいった方々はどうだったのか?無念と怒りだけとは思いたくないが、ホントのところはよくわからない。
ただ、死を自分でコントロール出来ない戦時下なら、せめて遺される者のことを考えて死んでいったと願いたい。

俺は唯物論者だ。
人は死ねば無になると本気で考えてるし、霊魂や死後の世界もないと信じてる。
だけど葬式や仏壇には意味がある。今を生きる自分と家族、そして未来を担う子供達との歴史を繋ぐセレモニーやモニュメントとしての。
霊魂は存在しないが先人の想いは人を介して確実に有る。それを伝承していくことこそ人の生きる意味なのだ。今は強くそう思う。

昨日のテレビを見ての感想である。

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立つ秋に 恋などして 病みたれば
しょっぱい味を 思い出したり

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