小学校のとき、ボーイスカウト(小学生は”カブ”だが)で鼓笛隊を編成していた。
不器用な俺はもちろん大太鼓とか指揮とかできず、その他大勢の小太鼓だった。でもその小太鼓すら上手に叩けなかった。タタタ・タッタカ・タッタカ・タタタの”タッタカ”の部分が崩れるのだ。
ゴム版を太鼓替わりに毎日練習した。でも全然だめだった。悔しくて泣いて全部放りなげて、しばらくしてまたちょっと練習する、でもうまくいかない。そんなのの繰り返し。
たまに上手に叩けると嬉しくなっちゃって浮かれるんだけど次に叩いたらまたダメでひねくれる。結局本番ではテキトーに誤魔化して切り抜けた。
同じく小学校のとき担任が俳句に凝ってる先生で、生徒全員に詠ませて品評会なんぞをひらいてた。国語も全然ダメだった俺はここでも注目されることはなかったが、まぐれで全国大会の佳作に入賞し、それから大人になるまで暇をみつけては詠んでいた。でもまぐれはまぐれなんで全然パッとしない。
その後は陶芸なんぞをはじめたが、土の手触りが官能的というよこしまな理由のみで続けた。大人がやる趣味の中では比較的安価で続けられるというのもあったし。不器用な俺はもちろんそこでも大したことはないのだが、焼き物は偶然の美術というように、なんのいたずらかたまたま出来の良いのができてそれが嬉しかったから今でも続けてる。
一昨年には釜まで買っちゃった。

自分が認められないのは悔しいものだ。必要とされないのはとても辛いだろう。
俺は逃げて逃げてとりあえず今面白く感じるものに至ってはいるが、陶芸からもいつそっぽ向かれるかわからない。そのときはまた逃げるのだと思う。
でも小太鼓にしても俳句にしてもまたやりたいなと思ったら出戻るだろう。
だってやってみたいんだもん。

俺は音楽はよくわからんのだがジャズはソウルじゃないのか?そのソロパートを削られるってのは自分の魂を否定されてることじゃないのか?
そんなただきれいなだけのジャズもどきが誰の心を揺さぶることができるだろう?
下手でクビにされるバンドなんざこっちから止めっちまえ。
音楽に商業的なヒエラルキーあっても魂に階級はないはずである。

疲れてるときはトランペットを置くのも良い。他の世界を見るのも勉強だ。でもきっと貴方の音楽を待ってる人がいる。自分自身という名の観客が。
そのアンコールがあったときはまた吹いてもらいたいと思う。

ま、トランペットかどうかわかんないんだけどさ。(笑)

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