アブノーマルセックスの代名詞であるところのSM。
サディズム(加虐性)とマゾヒズム(被虐性)の頭文字を合わせた呼称であり、語源はそれぞれマルキ・ド・サド(Marquis de Sade)ザッヒャー=マゾッホ(Leopold Ritter von Sacher-Masoch)という二人の文学者の性志向および著作からきている。
このあたりは普通の方でもご存じであろう。
一般的に苦痛を与えたり与えられたりすることに快感を覚える志向と思われがちだが、痛いから或いは苦しいから感じるのではなく、その時の屈辱感、主従関係のリアルな認識が快感になる訳だ。
言い換えれば、相手に身を任せる快楽、相手を自分の自由にする快楽とも言える。
ただひとつ、誤解されがちなのは、プレイの役回りとしての主従関係と、セックスをコントロールすることは違うということ。
S役が己の好き勝手なセックスを本能のままして、M役がただそれを受け入れてるワケじゃないのだ。
気持ちの良いSMはどちらかというと、M側が主導権を握ってるといっていい。
S役を気持ちよく引き立て、シチュエーションを整え誘導する。もちろんそのことをS役には気付かれないようにする。
「私を縛ってぇ〜ん」とおねだりするのは愚の骨頂。上手なMはS役にその趣味がなかろうと、緊縛プレイをしてしまう持っていきかたを知ってるのだ。
こういうM役の人に巡り会った人は幸せだろう。自身の新たな扉が開かれることになるのだから。
S役はというと、そこまでのスキルは必要ない。
愛する人が自分の腕で溺れていく様を慈しむことができる大きな心があれば問題ないのだ。

最近ではインターネットからおもちゃや武器が簡単に購入できることもあってか、ライトSMが普通の夫婦、カップルに流行ってるようである。これはとりもなおさず、人は潜在的にSあるいはM、もしくは両方の資質をもつ証ではないだろうか。
「あんたマゾちゃうの?」
という問いかけは決して良い意味として受け取られないことからもわかるように、多くの人にその資質があるにも係わらず、SMはどちらかと言うと蔑まれる行為と考えられてる。
そんな人の持つ陰の部分を愛する人の前でさらけ出す快感、これこそがSMの醍醐味なのかもしれない。

ってなにいってんだ?おれ。(笑)

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